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大聖院(だいしょういん)は、茨城県古河市本町(南新町)にある曹洞宗の寺院。山号を玉龍山、寺号を永昌寺、院号を大聖院という。〔『古河市史 民俗編』828-829頁(大聖院)〕 古河公方ゆかりの寺院。院号は北条氏康の法号による。 ==歴史== 大聖院自身の記録類は火災で失われているが、本寺にあたる熊谷・龍淵寺に残された『成田記』(巻一)によれば、戦国時代の大永3年(1523年)、第二代古河公方だった足利政氏が大朝宗賀和尚を迎えて、「永昌寺」を開いたことが起源とされている〔渡辺武雄「大聖院の開基・開山と創建年次について」『古河市史研究』第8号、6-26頁、1983年〕 〔大永3年当時の古河公方は第三代足利高基。政氏は久喜・甘棠院にて隠棲。〕。場所は、近世の古河城域内に創建されたのち古河市内の坂間に移転したとする説と、最初から坂間にあったとする説がある〔『古河市史通史編』196頁(大聖院)〕。大朝宗賀(賀蔵主)は成田氏と佐野氏が争った際、両者の和議を仲介したことがあり、その後は佐野盛綱および足利政氏に信頼されていた〔。 第五代古河公方・足利義氏のとき、元亀2年(1571年)に北条氏康が亡くなり、小田原に新たな寺を建立することが検討されたが、すでに早雲寺があることから取り止めとなる。そこで義氏は、正室・浄光院の希望により、義父にあたる氏康の寺を古河に建立することにした(『北条記』(巻四の九))。 義氏は重臣簗田政信に命じて、氏康の法号・大聖院と名づけた寺を市内の坂間に建立する。しかし、後北条氏との関係をめぐって義氏と政信が対立したとき、政信により寺は破壊されてしまった。義氏が再建を望んでいたところ、佐野昌綱が協力を申し出たので、天正元年(1573年)、坂間に永昌寺と旧大聖院をあわせた新「大聖院」を建立し、改めて開山を大朝宗賀とした。佐野氏は4代前の盛綱のころ、大朝宗賀を招いて寺を開いたことがあるが、その後、不和になったことを悔やんでいたので、この機会に協力を申し出たと考えられている。(『成田記』(巻一))〔 〔第四代古河公方・足利晴氏が北条氏康のために寺を建立したとする史料もあるが、晴氏は氏康より11年早く亡くなっている。〕 江戸時代初期、古河城主が奥平忠昌のころ(1620年頃)、城下町整備にともない坂間から現在地に移転した(『寺記』)。万延元年(1860年)、火災により堂宇を焼失したが、明治42年(1909年)に現在の本堂が再建された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大聖院 (古河市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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